開創については別記参照。
応永6年(1399)大内義弘が室町幕府(足利義満)に対して反乱(応永の乱)を起こす、義弘が檀家であったため、義満によって、寺地・寺産を没収される。
南禅寺の廷用宗器によって管理されることとなり、廷用は寺名を「龍雲寺」と改めた。(廷用は足利義満の兄弟)
ここに開創以来50年余りで一時中絶することになった。
永享4年(1432)廷用は当時南禅寺にいた関山の流れを汲む根外宗利に妙心寺再興を託す。
根外は愛知県犬山の瑞泉寺にあった日峰宗舜(妙心寺第四祖・七世)(1368-1448)を迎え、日峰により妙心寺は中興する。
日峰は細川勝元の父である持之の帰依を受け、細川家の強力な後ろだてを得る。
妙心寺第六祖・九世である雪江宗深(1408-1486)の時、応仁の乱(1467-1477)が起こる。戦火により京洛の地は灰燼に帰す。妙心寺ももちろん炎上した。
雪江は乱以後の妙心寺再興のためにさまざまに心を砕く。
その結果、より以後の妙心寺の教勢拡張の基がつくられ、戦国末以降有力諸大名の外護を得て隆盛となり、臨済宗中最大の末寺を持つ大寺となっていくことになる。
雪江には法を嗣ぐ四人の弟子があった。
景川宗隆(1425-1500)、悟渓宗頓(1416-1500)、特芳禅傑(1418-1506)、東陽英朝(1427-1504)で、それぞれ龍泉庵、東海庵、霊雲院、聖沢院の四本庵の派祖となり、四派として発展していくのである。